奥田頴川(おくだ えいせん)は江戸時代中後期の陶芸家です。 |
奥田頴川 |
奥田 頴川(おくだ えいせん)は江戸時代中後期の陶芸家です。 「頴川」は号で、実家の姓(「えがわ」と読む)にも相当します。通称「茂右衛門」、本名は「庸徳」といいます。 実家は飛来一閑と同様、清の侵攻から亡命した明人の末裔であったといわれます。後に京の質屋「丸屋」の当主・奥田家の養子となり、4代目を嗣ぎます。3代当主は頴川の叔父に当たります。 元来商売より文化活動に向いていた人物で、後を嗣いでも商売は番頭に任せ、諸芸の稽古に精を出していたといわれます。 趣味の一つである陶芸には特に熱を上げ、36歳の時には息子に跡を譲り隠居してしまいました。 特に当時国内では九州でしか生産できなかった磁器の製造実験を行い暗中模索の末に成功し、噂を聞いて集まった若手工人達にその技術を惜しげもなく公開し、京焼の発展に貢献しました。これらの若手工人達の中には後の青木木米、仁阿弥道八らがいました。 また作風においても、それまでの京焼とは異なる「染付」「赤絵」「交趾」など中国風の絵付けを施し、一大ブームを起こしました。 磁器の開発にしろ、新規な絵付けにしろ、頴川が職業工人ではなく素人陶芸家であったからこそ当時は可能だった事なのですが、京焼ばかりでなく、日本陶芸史に果たした役割は大きいものがあります。 死後、作品の大半は菩提寺である建仁寺に奉納されました。 (ウィキペディア参照による) |
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