江戸切子と薩摩切子  
陶器の芸術家月形那比古 荒川豊蔵の作陶創作精神に傾倒

月形那比古


月形那比古(つきがた なひこ)は1923年(大正12年)新潟県糸魚川市に生まれました。
荒川豊蔵の作陶創作精神に傾倒し、新潟県立長岡工業学校卒業後、早稲田大学在学中の1941年に学徒動員、一年早く志願して第二次世界大戦へ参戦しました。
戦後復学し日本大学芸術学部を卒業。志野は桃山時代に発祥、その後衰退し昭和中期に荒川豊蔵に再現されるまで、焼成方法など志野には不明な点が多くありましたが、昭和30年代中頃に研究を基に半地下式穴窯を築き、薪を燃料とする独自焼成方法を発見研究し、志野をさらに極端なまでの長時間焼成する火陶「鬼志野」を発表して、昭和陶芸界に衝撃を与えました。
また1970年代には鬼志野作品がアメリカを中心とした海外にも紹介され、国際的に鬼志野がoni-shino、devil-shino、damon-shinoと紹介され、日本国内のみならず直接的、または間接的に海外の陶芸家などにも影響を与えました。
月形那比古の作品の特色は、多重面の交錯というキーワードと、スパイラルなムーブメントというキーワードに置き換えられるでしょう。
特に鬼志野作品はうねるような窯変景色と志野とのバランスが、その独特の造型をより強調させ、烈しい美を求めたところにあります。
また、桃山時代に栄えた、半地下式穴窯を再現し古式技法である薪を使用して、自らコントロールし、火炎の強弱を作品に反映させ焼きぬいたところが特徴です。
これにはいくつか作家自身の工夫や研究、窯など、また窯のあるところの地形や風や湿度、気候などにも影響を受けるようですが、それを逆手に技法として生かしています。これは鬼志野という、荒川豊蔵にも、加藤唐九郎にもない月形独自の焼成技法が創作される作品にはあるといえるでしょう。近代陶芸における独創的な志野、すなわち鬼志野の第一人者として、一つの作風を確立したのです。
絵画においては、赤系統をふんだんに使った絵画が多く見られるのが特色で、「燃える赤」と言われる色彩使いが特徴です。
この赤い色は彼の思う「燃ゆる炎の想念」を表していると思われます。
穴窯の炎を表現しているのです。またマチエールにおいては、鬼志野的なうねる表面の動きが筆の動きに置き換えられ、多重な面の構成によって、二次元の世界が三次元的な表層をなしているのが特徴です。スパイラル(渦を巻く)ムーヴメント(動き)は陶芸絵画の両方に共通する言葉であり、陶芸作品で言えばその重厚で、あぐらをかいたような造型、絵画で言えばその画面からは、作者の人格や心象的旅情、心の眼で映した残像もが、強烈に反映されているイメージがあります。
月形那比古をあえてカテゴリー分けすると陶芸作家ということになりますが、絵画、篆刻、書、彫刻分野にも優品を残しています。
現代風にいうならば「アーティスト」と言う言葉が適正でしょう。
余談として、展覧会会場などでいち早くエンターテーメント性を露出した作家でもあります。これは、自らの尺八吹奏を会場でし、鑑賞者(リスナー)に聞かせ独自の那比古ワールドを醸し出しました。これは、自身の発奮や個展を托鉢と考える思考からきているようです。
(ウィキペディア参照による)

 

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