江戸切子と薩摩切子  
北大路魯山人は篆刻家、画家、陶芸家、書道家、など多芸に渡ります。

北大路魯山人


北大路 魯山人(きたおおじ ろさんじん)は日本の芸術家。本名は北大路 房次郎(-ふさじろう)。京都府京都市上賀茂(現・京都市北区)出身です。
篆刻家、画家、陶芸家、書道家、漆芸家、料理家、美食家など様々な顔を持っていました。
上賀茂神社の社家・北大路清操、とめの次男として生まれました。6歳の時に竹屋町の木版師・福田武造の養子となり、10歳の時に梅屋尋常小学校を卒業し、京都烏丸二条の千坂和薬屋(現:千坂漢方薬局)に丁稚奉公に出ています。
1903年(明治36年)、書家になることを志して上京。翌年の日本美術展覧会で一等賞を受賞し、頭角を現します。1908年(明治41年)から中国北部を旅して書や篆刻を学びました。
帰国後の1910年(明治43年)に長浜の素封家・河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境を提供されました。
ここで魯山人は福田大観の号で小蘭亭の天井画や襖絵、篆刻など数々の傑作を当地に残しています。
そして敬愛する竹内栖鳳がしばしば訪れる紫田家の食客になることが叶い、訪れた栖鳳に款印を彫らせてもらうよう願い出ます。その款印を気に入った栖鳳が門下の土田麦僊らに紹介したことで日本画壇の巨匠らとの交わりが始まり、名を高めていくことになりました。
戦後は「美食倶楽部」の拠点・星ヶ岡茶寮が人手に渡るなど不遇な生活を過ごしますが、1954年(昭和29年)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、翌1955年(昭和30年)には重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるもこれを辞退しています。
1959年(昭和34年)に肝吸虫、つまりいわゆる肝臓ジストマとも呼ばれた寄生虫による肝硬変のため死去しています。
(ウィキペディア参照による)

 

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