江戸切子と薩摩切子  
陶器の芸術家柿右衛門は、江戸時代、肥前国有田の陶芸家です。

柿右衛門


柿右衛門(かきえもん)は、江戸時代、肥前国(佐賀県)有田の陶芸家、および代々その子孫(後継者)が襲名する名称です。
良質の陶土が発見されたため現在の佐賀県西松浦郡有田町に移住した酒井田円西は、息子である喜三右衛門とともに陶器や白磁、染付などの磁器を製作していましたが、やがて17世紀前半に喜三右衛門は赤絵磁器の焼成に成功し、柿右衛門を名乗りました。
初代は乳白色(濁手)の地肌に赤色系の上絵を焼き付けるという柿右衛門様式と呼ばれる磁器の作風を確立し、その作品はヨーロッパなどにも輸出されマイセン窯などでは模倣品も作られました。
また、磁器の発祥地である中国の景徳鎮窯にも影響を与え(景徳鎮伊万里)、同様の作品が作られやはりヨーロッパに輸出されました。 1666年に没した初代、その息子である二代(1620年-1661年)、二代の弟の三代(1622年-1672年)は製作期が重なっており、作風にも大きな差は見られません。
また、三者とも極めて技量が高かったと言われます。これに加えて四代(三代の息子、1640年-1679年)までの間が初期柿右衛門とされています。
続く17世紀後半から18世紀前半にかけての約90年間、五代(1660年-1691年)から七代までが中期柿右衛門とされます。五代は技量が芳しくなかったために、1685年を以って鍋島藩からの恒常的な発注が差し止められました。六代(1690年-1735年)は意匠・細工に優れた叔父の渋右衛門にも助けられ、食器類のほか花器、香炉など様々な磁器製品を高い水準で量産することに成功しました。このため中興の祖とされています。
また1724年には嘆願書を藩に提出し、臨時の発注の一部が酒井田家に用命されることとなりました。この一方で、高い技術が要されることなどから七代(1711年-1764年)以降に濁手の作品は中絶してしまっています。
18世紀前半から19世紀にかけての八代、九代と十代の期間は後期柿右衛門とされ、主に染付の磁器を製作しました。七代から八代にかけては四角の中に福の字が入った「角福」と呼ぶマークを施したものが多くあります。
(ウィキペディア参照による)

 

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