江戸切子と薩摩切子  
板谷波山 日本の近代陶芸の開拓者 文化勲章受章

板谷波山


板谷 波山(いたや はざん)は、明治〜昭和期の日本の陶芸家。日本の近代陶芸の開拓者であり、陶芸家としては初の文化勲章受章者です。
理想の陶磁器づくりのためには一切の妥協を許さなかった波山の生涯は映画化もされています。
日本の陶芸は縄文時代からの長い歴史をもちますが、瀬戸、美濃、伊賀などの茶器、朝鮮半島の影響を受けて始まった伊万里、鍋島の磁器のように、芸術品として高い評価を得ている作品さえも、ほとんどが無名の陶工の手になるものです。
近世には京焼の野々村仁清のように個人名の残る陶工もいますが、「職人」ではない「芸術家」としての「陶芸家」が登場するのは近代になってからです。
板谷波山は、正規の美術教育を受けた「アーティスト」としての陶芸家としては、日本におけるもっとも初期の存在です。陶芸家の社会的地位を高め、日本近代陶芸の発達を促した先覚者として高く評価されています。
波山は1908年(明治41年)の日本美術協会展における受賞以来、数々の賞を受賞、1917年(大正6年)の第57回日本美術協会展では、出品した「珍果花文花瓶」が同展最高の賞である1等賞金牌(きんはい、金メダル)を受賞しています。
その後、1929年(昭和4年)には帝国美術院会員、1934年(昭和9年)には帝室技芸員となっています。
第二次大戦後の1953年(昭和28年)には陶芸家として初めて文化勲章を受章。
1960年(昭和35年)には重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)の候補となりますが、これは辞退しています。
波山の、自分は単なる伝統文化の継承者ではなく、芸術家であるという自負が辞退の理由であったと言われています。
彼は1963年(昭和38年)、工房のある田端にて没した。絶作(最後の作品)『椿文茶碗』は没年である1963年、波山91歳の時の作品であり、彼の技巧が死の直前まで衰えていなかったことを示しています。
(ウィキペディア参照による)

 

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