江戸切子と薩摩切子  
永樂保全 19世紀に活躍した京焼の陶芸家

永樂保全


永樂 保全(えいらく ほぜん)は、19世紀に活躍した京焼の陶芸家。 千家十職の一つ、土風炉師・善五郎の十一代です。
幼名は千太郎、1806年頃に十代善五郎である永樂了全の養子となります。十一代善五郎を襲名したのは1817年であり、1827年には紀州藩十代藩主徳川治寶の西浜御殿の御庭焼開窯に招かれ、作品を賞して「河濱支流(かひんしりゅう)」の金印と「永樂」の銀印を拝領しました。
これが永樂姓の由来です。1843年に息子の和全に善五郎の名を譲って善一郎と名乗り、さらに1848年には保全(やすたけ)と名乗りを変えました。このため、没後は他の善五郎との区別のため保全(ほぜん)と呼ばれます。
作品には、土風炉師・善五郎として代々制作した土風炉の他、茶碗、向付や蓋物など様々な作品があります。交趾焼、安南焼、金襴手など陶器・磁器の双方を手掛けており、オリジナル、写しともに優品が多くあります。特に写しの作品は京焼としてアレンジし、洗練された高い完成度が見られます。

略歴
1795年(寛政7年)千太郎として生まれる。生家は京都の織屋だったとも言われる。
1806年(文化3年)この頃、十代善五郎(了全)の養子となる。
1817年(文化14年)十一代善五郎を襲名。初めての結婚をする。
1818年(文政元年)女児が生まれるが、妻は後に亡くなる。
1819年(文政2年)この年から1822年の間に、幼少時奉公した百足屋木村氏(薬舗)の娘と再婚。
1823年(文政6年)長男の仙太郎(後の和全)生まれる。
1825年(文政8年)妻(和全の母)没する。以降、保全は再婚しなかった。
1827年(文政9年)紀州藩主・徳川治寶の御庭焼開窯に招かれ、「永樂」の銀印を拝領した。
1843年(天保14年)和全に善五郎の名を譲り、善一郎と名乗る。
1848年(嘉永元年)保全(やすたけ)と名乗りを変える。
1851年(嘉永4年)大津で湖南焼を始める。
1852年(嘉永5年)高槻城主・永井直輝に招かれ、高槻窯を築窯。
1854年(嘉永7年)4月、御所の火事で自宅が全焼。9月、60才で亡くなる。
(ウィキペディア参照による)

 

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