江戸切子と薩摩切子

薩摩切子の衰退


第10代薩摩藩主島津斉興は、長崎等から伝来した外国のガラス製造書物を元に、江戸のガラス職人を招くなどして、切子を作らせ、江戸切子に更に工夫を凝らした薩摩切子を完成させました。
第11代藩主島津斉彬は集成館事業の一環として薩摩切子を大切に育てています。そこでは100人以上が働いていたと言われます。
この薩摩切子の江戸切子と違うところは、江戸切子が透明な透きガラスに細工を施したものなのに対し、薩摩切子は表面に着色ガラス層つけたものが多く、またホイールを用いた加工が行われています。
表面に着色ガラスを付ける方法は色被せと言う方法ですが、色被せの技法はボヘミアや乾隆ガラスから学んだもののようです。
薩摩切子はヨーロッパのカットガラスに範を取ったものですが、当時の品には、日本的な繊細さが見られます。
色被せの薩摩切子の特徴として、特にその色の層の厚さがあり、これに大胆な切子を施す事によって切子面に色のグラデーションが生じますが、これは色被せ薩摩の特徴で「ぼかし」と呼ばれるものです。
第11代藩主島津斉彬はこれを大切にし、育んできましたが、斉彬の死後、集成館事業は縮小されるようになりました。
さらに、薩英戦争が起こり、イギリス艦艇による集成館砲撃で被害を受けたり、幕末維新から西南戦争へ至る動乱もあって、その技術は明治初頭で途絶えてしまいました。

江戸切子と薩摩切子(TOP)へ   切子グラス